増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー第3回「練習中は審判も観客もいないから凄絶なことに」
増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー第3回「練習中は審判も観客もいないから凄絶なことに」
Special Interview
© TOSHINARI MASUDA
柔術家ならご存知であろう、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者・増田俊也さんの最新小説『七帝柔道記Ⅱ立てる我が部ぞ力あり』(角川書店)が今春、待望の発売を迎えた。
寝技中心の高専柔道、その流れを汲んだ七帝柔道(ななていじゅうどう)に身を置く男達の物語で、増田さんが所属した北海道大学柔道部時代をモチーフにした自伝的青春小説である。
寝技といっても、タップをすれば技を解き、笑顔で握手をするような現代の競技柔術からは程遠い。七帝柔道は、15人の団体戦で勝敗は一本のみ。絞めは落ちるまで。関節技は折れるまでと想像を絶する極限の戦いだ。
柔術をやる者であれば、ぜひ読んでおきたい寝技格闘技のルーツともいえる本作品について、発売後の増田さんから話を訊くことができた。全5回にわけてお届けをしたい。
聞き手=伊藤健一
――確かに柔道経験者は、力が入りすぎの人が多いです。
増田:若いころ、柔道できつい経験をしてるから。パワフルな抑え込みが中心でね。北海道警特練なんかの出稽古へ行くと練習中は肘や頭突きも入れられた。「参ったなし」は当然で、怒らすと立ったまま壁に押しつけられて十字絞めで何度も繰り返し落とされて。あれはもう地獄ですよ。
試合と違って練習中は審判も観客もいないから凄絶なことになった。今も名残りはあると思うけど、当時は各都道府県警の特練はみんなそうでした。東京や関西で超強豪大学のレギュラー張って、特練に引っ張られてガンガンにやってる選手たち。
特練というのは「術科特別訓練員」の略で、五輪や世界選手権、全日本選手権を目指してるんです。一般の警察官の普通の勤務を軽減されて、柔道や剣道だけを専門にやってる実質的なプロですよ。当時の北海道警には20数名いた。特殊部隊SATの人たちより戦闘力が高い怪物たちです。
――そういう人たちなんですか……。
増田:僕なんかコンクリ—ト敷きの玄関まで引きずられて巻き込んで投げられて馬乗りになられて「なめるな!」と顔面にガツンと肘を落とされた。絞めで失神させては活を入れることを何度も繰り返されたりね。
――壮絶すぎますね。
増田:そういった経験してるから柔道の寝技は実戦的だと思ってた。前田光世の異種格闘技戦の話も読んだりしてたから。
それで1993年の第1回アルティメット大会(UFC)でホイス・グレイシ—が出てきて寝技に引きずりこんでトーナメントを優勝したでしょう。
「あ、これだ。前田光世が海外で他格闘技相手にやったのは」と思った。ゴン格とか格通とかは増刊号とか別冊まで出して日本の格闘技マスコミが大騒ぎになった。
それで翌1994年の第2回大会に大道塾の市原海樹が参戦して、その市原もホイスに負けたんですよ。片羽絞めで。「これは柔道そのものだ。それに打撃対応力をつけたものだ」と僕も思った。柔道の中の寝技の一部で勝ってると、柔道家ならみんな行けると思った。他の柔道家もみんな感じたと思う。
ゴン格とか格通に柔道の岡野功先生やキックの一流指導者が出てきて動画を見て「これなら日本の柔道家やキックの選手が出たら優勝できるよ」と分析して、余計にそう思ってしまった。
――なるほど。
増田:吉田秀彦が、ホイスとやる時(2002年)も、古賀稔彦がインタビュ—で、ホイスの試合を見て、笑いながら「これじゃ秀彦の相手にならない」って言ってたしね。柔道はフィジカル重視の技術体系だから柔術家の体が貧弱に見えたし、動きもパワー不足に見えたんです。柔道界はみんな古賀と同じくそんな感じだったよね。
でも、周りの柔術家たちは「ホイスの勝ちでしょ」って言ってたから、それはないでしょって思いながら試合は見てた。
――結果は、吉田が袖車でホイスに勝ちました。
増田:あれは、小室(宏二)君が教えた技だよね。僕は、袖車使ったことないからわからないから札幌に電話して佐々木コ—チに聞いたんです。
そしたら「あれは、上に乗りすぎて極まってない」って言ってた。僕も何度かビデオでリプレイを見たけども、僕の眼ではわからなかった。
――吉田秀彦と練習した人に聞くと、とんでもないパワ—があると聞きます。
増田:そう、柔道家って力が強いんだよ。めちゃくちゃ強い。柔道ってパワーがないとできないのよ。上のレベルにいくほどパワーが凄まじい。
でもそれは弱い部分もあって、自分より力が強いやつに当たった時は勝てないのよ。だから五輪で海外勢の伏兵相手にポカやっちゃうんじゃないかな。
この話はパワーの話だけども、技術的にもそうだよね。力がある人間は力に負けることがあるし、技がある人間は技術でポカする。だから練習態度というか練習への臨み方って大事なんだよ。
――練習のときの心の持ち方ですか?
増田:うん。そう。『七帝柔道記Ⅱ』の中でも書いてあるけど、僕が3年生の時に、東大のやつにすぐ投げられて負けたんだけど。
――開始、数秒で負けたやつですね。
増田:数秒もなかったな……。主審の「はじめ!」の声と同時に僕が突っ込んだところを、カウンタ—の大外刈りで負け。あんときは、僕の練習の姿勢が良くなかった。
大会3カ月くらい前から僕が闘志を前面に出した練習をしすぎた。後輩たちは僕を怖がりながら練習してたので、みんなすぐ引き込んで来た。
自分では、前へ出れば相手は怖がって引き込んでくると思ってたけど、対戦相手は自分のことを全然怖がってなかった。ただの試合相手でしかないからね。
後々ね、『近代柔道』で柏崎克彦先生がこのことについて言及してて「あ、これだ。俺は」ってすごく反省した。柏崎先生は「乱取り中に後輩を怖がらせたらいけない。そういう練習してると自分が強くなったと錯覚して、試合に出て大きなポカやるんだ」と言っててね。まさに俺のこのときの試合だったんですよ。
――なるほど。
増田:3年生時代の僕は練習への向きあい方が間違っていたと思う。吉田とホイスの試合の話に戻すと、柔道家はみんな吉田クラスのパワーの凄さを知ってるんですよ。そのイメージがあるから吉田のほうがホイスより圧倒的に強いから勝つと。20世紀の僕がやってた頃は、それが当然だったからね。
そして当時は、吉田以上にパワーがある柔道家も沢山いました。今は柔道の全日本選手権に高校生が何人か出てるけど、当時は層が厚かったから高校生だと山下泰裕くらいしか出れなくて、当時はそれで新聞1面になったくらいだからね。それくらい柔道の選手層が厚かった。
――日本各地にとんでもなく強い人が沢山いたんでしょうね。
増田:柔道において力はほんとに大事というか、みんな力が強いから、あって当然のものだった。その力があっての技なんです。柔道の練習は立技でガンガンに引っ張ったり押したり、スピードで投げたりするでしょう。その練習自体がウェイトトレーニングみたいなもので体全体にパワーが付いていくんです。体全体がバスケットボールの球みたいに強い弾力があって、スピードもあって、筋肉が鉄みたいに硬質で強い。とくに体幹がね。千代の富士みたいな感じですよ。だから「柔よく剛を制す」というのは「力が弱い者が力の強い者に勝つことではなくて、力が強い者が、より力の強い者を制すること」と高校時代の師範に教えられました。
「だから基本として、まずはパワーを付けろ」と。エリオ・グレイシ—が「自分は他の兄弟と違って、力がないから工夫したんだ」と言ってたのも、僕は最初は全然理解できなかった。
――当時はそういう人が多かったと思います。
増田:北海道警の大将格に高橋政男さんという世界選手権で3位になったことがある先生がいたんです。当時30代半ば。86kg級の選手で、すでに国際強化選手は引退してたから僕ら北大生には優しかったんですが、全国警察大会の団体戦で道警はけっこう上のほうにいて、それをプレイングマネージャーみたいに引っ張ってたからまだまだ滅茶苦茶強い頃。
176cmで86kg級だから僕とそれほど変わらないはずなのに、向かい合うとヒグマみたいにでかく見えて威圧感があるんです。それでドーンと一本背負いで叩きつけられて抑え込まれる。
――大学は?
増田:天理大学出身です。天理だから立技の大学なんだけど、旭川龍谷高時代に寝技をみっちりやってた人。旭川龍谷って寝技が強くて有名なんです。そこから天理大、そして道警に引っ張られた人。日本武道館で行われる体重無差別の全日本選手権も常連で、寝技がとくに強くて「寝技の高橋」といって中央の柔道界でも有名な人でした。
天理時代は寝技の強い京都府警で練習してたとも聞いてます。この高橋先生の下からの返しで得意技の“高橋返し”というのがあるんです。ある技術研修会で高橋先生のこの高橋返しの解説になった。道内の大学と強豪高校の選手がたくさん来ていて、高橋先生の説明が終わって「2人一組になってやってみて」となって、全体の人数が奇数だったから僕が余ったんです。それで「君、僕を使っていいよ」と。それで僕が下になって、解説どおり下から返そうとするんだけど、高橋先生の力が強すぎて動かないんです(笑)。
高橋先生はダランと力抜いてるはずなんですよ。でもそれでも動かない。「ほら。その脇を掬って伸ばして」と上から言ってるんだけど「掬えないんです」と唸りながら僕が言って、掬わせてもらったところからやり直して、今度は肘を伸ばそうとするんですが「肘が伸びません」と僕が下から言って、高橋先生が驚いてるの(笑)。
「どうして伸ばせないんだ?」とか言って(笑)。それくらい力が強いんです、あのクラスの柔道家は。だから「乱取りしたらどうなるんですか」とか聞かれますけど、乱取りにならないですよ。
――それは、どうにもならないですね(笑)
増田:ヒクソンが自伝を出した時に、亜紀書房から頼まれて僕が後書きを書いたんだけど、「当時はグレイシー柔術の強さの秘密がわからなかった」と書いて、柔術やMMA関係の色んな人に批判的なことも言われたんだけど、当時の自分と自分のまわりの柔道関係者の空気をそのまま書いた方が良いなと思って書いた。
ああいった本は100年後も残るから、後々の書き手たちのために本当のことを書いたほうがいいと思ったんです。
<この項、続く>